昭和45年8月23日 朝の御理解                   明渡 孝


御理解第九十二節「神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ」


 九十二節を通読させて頂いて思わせて頂くのは、神様は、おかげを下さるというても、受け物が小さければおかげは小さい。受け物が大きければおかげは大きいと、そこにはっきりと示しておられるのがこの九十二節だと思うんですね。
 だいたいここを、まあいうならば取次者、先生方が頂かなければならないとこだと思うんですね。朝寝をしよると、信者も遅うしか参ってこんぞと。先生が早起きをしよると、信者も早く参ってくると。遅く起きると早く起きるは、信者のお参りの遅い早いにかかわるぞということは、そのことです。はっきりしたことだと。いわゆる、守り守りの力によっておかげが違う。どこへ参ったからというて神は一体じゃによって、天地金乃神は一体、同じなのだ。
 けれども、あそこでおかげを受けられて、ここではおかげが受けられんというのは、守り守りの力によってひれいが違うのぞ、とこうおっしゃられる。ね。ですからね、もう力量の問題なんです。いわば百の力を持っとりゃ百のおかげであり、千の力を持っとれば千の力だということを言うておられますから、私どもいよいよ力をより頂かなければならない、よりおかげの受け物を大きくしていかなければならないということになります。そういうですね。
 そこでなら、より力を頂くことのために、より大きなおかげを頂くことのために、やはり心が大きゅうならないけん。心が豊かにならなければおかげは大きく豊かになってこない。心もはもう消し粒のようであってから、大きなおかげを願ったってそれは無理な話です。
 ちょっとしたことがもうイライラする。ちょっとしたことが腹が立つ。それでいて「おかげだけはどうぞ」と言うたって、これは無理な話。ね。そこで、例えば苦い思いをすることもありゃ、嫌な苦しい思いもすることもあるけれども、今こそ神様が大きな心を頂けよと。もう何を頂いても障らんだけの、いうなら、健全な大きな胃腸を頂けよと。
 胃腸の強い人は、もう胃腸の全然意識しないという。心の大きい人はです、それこそ少々の問題があったって、それを全然感じきらない。感じるところにです、「はあ自分はまだ心が小さいな」ということになるのです。いわゆる、胃腸に意識するところに、胃腸が悪いなということをまず自覚しなければなりません。同時に私どもは、より大きなおかげを願わして頂くんでございますから、より大きい受け物を頂かせてもらうというおかげを頂かなきゃならん。
 ●先日、ある方がお参りをしてきた。大きな奈良漬、奈良漬樽と思われる。私どもが昔漬けよった時分は、ビニールなんかっていうのが無い時分ですから、この桶を、まあいうならお酒の(うち桶?)なんかがあったら一番良いけれど、もうお酒に使われる桶。
 その漬物桶やら、醤油樽やらも漬けよったら、いっぺんに腐ってしまいますよね、奈良漬っちゅうやつは。いわゆるまだ酒が入れられる、いわば樽にしか奈良漬は漬けませんでした。
 ところがその、上からフタを取って、またこう密封いたしましてね、それにです、なるほど密封してある具合から、はあこれは奈良漬だなとこう思わせてもろうたらです、それがもう、外も真っ黒うなってから、こげな奈良漬、こげな( ? )奈良漬漬けちゃるならなかん、奈良漬が腐ってしまうと私は思いよるような、まあ御心眼、お知らせを頂いた。●
 だいたいこの人は、心ば大きいばいなと思うたんです。信心もまだここに何回かしか参ってきたことのない人なんですけれども、遠方から参ってまいります。だから、生まれつきです、やはり心の大きな人っていうのはありますね、小さい人があります。もう神経が細い人もありゃ、神経が図太い人もある。けれどもね、おかげを受けるということは、神経が大きいとか細いとかということではないのです。
 どんなに神経の細い人でもです、ね、その小さい神経をフルにありがたいことに使わして頂いて、同時に大きゅうなる稽古をさして頂いたら素晴らしいのです。かというて神経の大きい人は、もう全然感じない人がある。いうならそれは、大きな酒樽のようなものであろうけれど、奈良漬のようなものであろうけれどもです、ここが信心で磨きをかけられ、それこそ酒の匂いのプンプンするようなです、ありがたいもったいなきの匂いをプンプンするほどしのありがたさを持った樽でなからなければ、奈良漬は腐ってしまう。だから、大きいだけじゃいけないことが分かりますよね。
 だから、結局信心というのはね、どんなに神経が細くても大きゅうても、結局は改まりに改まり、磨きに磨き、ありがたいもったいないというその心を養うていくことがです、おかげであるか、おかげになるということが分かります。
 生まれつきあっちは心が大きいとじゃから、そげなったら何もなりません。生まれつき心が大きかったっちゃ、奈良漬であるのごたるなら、味噌樽のごたるのに奈良漬漬けたってダメでしょうがね。
 まあ私どももどっちかというと、たいへん神経が細いほうです。けれども、だんだん信心さして頂いて、それこそ血の涙の出るような思いをする時でも、それをありがたく受ける稽古を一生懸命さして頂きよったら、その細い、なるほど今でも神経がビリビリしとります、ある意味では。非常にその、何と言うですかね、それこそ、まあ(      ?          )のごたるところがあるです。細いところに気が付いてね、家内なんかはそれで随分苦労しました。
 ところが、信心によって、だんだんおかげを頂いてまいりましたら、感じますけれども言わんで済む。いや、むしろそのことにお礼が言えれるような心の状態ができてきて、いわゆる心が大きゅう豊かにだんだんなっていったということ。
 先日あの、台風のありました朝です。福岡の高橋さんがお参りをされまして、まあ休まして思わしてみりゃ、ところがご承知のように、こんな大きな木が倒れておりましたから、ここへまいりましたから、すぐ久富建設に電話をかけて、とにかく、すぐあれを起こす機械、クレーン車ですか、を頼んでおられります。
 それを頼むつもりで電話をかけておられましたところが、電話が通じませんでした。久留米には通じましたけれども、善導寺には通じませんでした。それからすぐ、その足で久富組に、久富建設に行ってから依頼してきた。
 ちょうどお盆のことでございましたから、休んでおったけれども、教会のことだからというて、わざわざ久留米の親戚のクレーン車を借りて、マサキさんすぐ来てくれましたから、その日のうちに立ちましたんですね。
 そして、いっぺんグルっと回ってきとる、高橋さんにですね。まあもうそれこそ、その日は一日、煙突が倒れておるのを、煙突掃除から煙突立てからもう、いうならグルグル回ってから、とうとう夕方まで御用を頂いて帰られました。気が付くんですよね。
 私はたまがってしまってから、「あんたばかりは愛想もクソもなかごと気が付くのう」と言いました。まあ、愛想もクソもなかっち言えばそれはたいへんな悪い言葉ですけれども、よく言いますでしょう。もう心憎いまでに素晴らしいということ。ね。ほんなこて、「貫きせんこともようできる」っちゅうのがありますよね。まあそういういみで私は、もうあんたは、愛想もクソもなかごと気が付くのと言うて話したことでございましたがね。
 帰りがけには、もうここは水が出ませんから、そこの近所の水のあるところに寄ってですね、「すいませんが教会から水をもらいに行きますから、どうぞ水の相談をさして下さい」と言うて水の相談までしてきちゃった。
 私がたくさんお水を頂くでしょう、おかげで冷凍庫の中に氷があったから良かったけれども、もう昼頃頂く時には、もういよいよ生ぬるか私は、水ば飲まんならんなと思いよったです。それから、お水くれって言ってからそしたら、氷がいっぱい入っておりますもん、「はあまだ氷があったの」ち言ったら、いえ、高橋さんがちゃんと氷屋から氷買うてきてございます。
 私はこれ聞いた時にですね、驚いてしまいました。そらたとえ気が付いたってですよ、そらもう、「教会もそうやろうばってん、家の方がまだ」ちゅうごたるふうな人が多い中にです、そのできるということもですけれども、気が付かれることにですね、もうそれは神経が細いですね。それでいてこの頃は、だんだんそういう小さい神経を持ちながら、大きゅうなる稽古を様々にしておられますよね。
 先日もあちらの番頭さんが、こんな子供がチョロチョロっとこう走って出てきてから、単車に引っかけて、こんなちょっとしかケガしとらん。ところがちょっと、地主があんまりよくなかった。他所もんですから、金の二十五万から出せと言われておるわけです。
 けれども、そういうことにですね、ほんとにもう出させて頂くということがね、お取り払いを頂くことならありがたい、というて昨日お届けしとられます。(  ?  )これはもうほんとに、この頃はもっと大きな事故があったんです。病院に入院してもらわねばならん、これも番頭さんが単車でちょっと引っかけた。去年でしたか。
 それはね、とにかく二万円ぐらいで、向こうがお礼がすんだと。今度のは二十五万円要求された。けれどもそれをですね、いわゆる、その番頭さんのためにですけれども、ともやはり店の信用にも関わるだろうから、それがお取り払いになるならば払います。家のから十万、ちょっと家に十五万、ちょうど神様が二十五万を用意をしておって下さるということから考えてもありがたいち、昨日みえとられます。
 いつも言うように、困ったことであってもそこにね、おかげと思わなければならんようなことがあるわけです。二十五万要求されたら、そこに二十五万お金があったっちゅうんです。というようにですね、いわゆるそういう神経の細い人が、そういう、いわば心の、大きな心になれていきよりなさるということがありがたいでしょうが。
 まあたいへん、ちょっと余談になりましたけれどね。とにかく、心が、受け物が大きければ、やはりおかげも大きいということ。なら信心でいうおかげの受け物はです、それこそ、味噌樽のような奈良漬じゃいかん。やはり酒の香りがプンプンするような樽でなからなければ、奈良漬がおいしゅうないようにです、ありがたいもったいなき、ありがたいという信心の香がプンプンするような、しかもそれでいて、どんなに神経が細くても、受け物は大きいというおかげを受けるからおかげが大きい。ね。同じことでしょうが。
 朝早う起きりゃ、信者でも早う参ってくると。神のひれいが違うのぞと。あちらへ参ったけれども、おかげは受けられなかった。こちらへ参ればおかげが受けられる。神は一体じゃによって同じだけれども、その守り守りの力が違う。いわゆる教会長先生の力が違うという意味なんです。
 だから力量でしょう。百斤しか持てない先生なら百斤方しか助からん。いうならば、量りでいうならば、十斤がかりの(ちきり?)があるといたしましょうか。それを信者が二十斤の問題を「先生お願いします」と言うて持ってきたら、先生のほうがポーンと上がってしもうてしまう、というようなもんなんだ。
 ところが、千斤も持てる先生のところに、五百斤もの問題を持って行き「先生お願いします」と言うたら、「はい、よっしゃ」と言うて反動ばちょっとこう先生がしなさるだけで、水平のおかげを頂く。(ちきり?)と同じことですよ。十斤がかりの人もありゃ、百斤がかりの人もある。千斤がかりの人もあるということ。ね。
 これはめぐりのこと言うてもそうです。どんな問題が起きても、はあ自分が小さいなと気が付いたら、もっと大きなちきりになることの精進をする以外にないです。打てば響くように、併せ鏡のようにと言われております、おかげは。だから、そこんところをです、皆さんもです、自分の心の、いわば小ささ見苦しさ、そういうものに取り組まして頂いて、私は、よりおかげの受け物を清めていくとか、大きゅうしていくという稽古をなさらなきゃならん。
 昨日は、次々午前中に、他所の教会の先生がお参りになる日でした。中にもあの、先日十三日会の時に、山内教会の総代さん方がお話を聞きにみえておられましたですね。あの中におばあさんの総代さんがおられました。目の悪い。私はあんなに目が悪いとは思わなかった。
 昨日そこで、繁雄さんお茶を汲んであげておられたが、そこにお茶をあげておりますからどうぞと言うたっちゃ分かりなさらんとです。探りながら、目の前にあるお茶を探りながらお茶を頂かれるというほどしの、ようもそげん目が悪うしてからですね、お参りをしてこられたことですね。電車に乗ったりバスに乗ったりして来らにゃならんのに、「それは先生、どうでもお参りしたい、お参りしたいの一念で参ってまいりました」ちいうてから言うておられます。一念です。
 それがですね、白内障です。片一方の目が全然見えない。片一方の目が少し見える。「先日こちらにお引き寄せを頂いた時に、生まれつきに目が見えないという方が目が開かれたとか。もう失明しておられたかたが、開眼のおかげを頂いたとかというお話を聞かせて頂いて、ほんとに恥を忍んで、今日はお参りさして頂きましたが」というて自分のいろんな懺悔話をなさいましてね。
 実は私は、昭和二十七年にご本部の学院に入りました。五十何歳で。そして、教師の資格まで取らせて頂いておりながらです、こういうおかげを頂ききらんことになりまして、先生、どういう信心をさせて頂いたらおかげになりましょうか、というて、まあ他にいろいろの難儀な問題がありましたが、お取次を願うておられます。
 ●それで私がね、そのことを神様にお願いをさせて頂いておりましたら、もうそれこそ無数のね、まあいうならばクモのネバのような、クモの巣を張っておるようなもの。その中にクモが止まっておるというような感じのお知らせを頂きましてね。
 これは先生、あなたの場合はね、一事・二事こげな信心すりゃとか、例えば朝参りをしなさいとか、こればいっちょ改まりなさらな、というようなことでおかげになることじゃありません。その原因というものは、もうそれこそクモの巣を張り巡らしたようにたいへんな、様々な、いわゆる先日の御理解でいうなら輪廻である。
 そういうたくさんなめぐりが集結して、ここに目が見えないという難儀になっておるのですよ。だから、これほどしの神様のご都合あってのこれですから、これは良うならしてくれ、良くなりたいという願いは、もう持ちなさらんほうがようございますち言うたら、涙ボロボロ流しておられたですよ。●
 だから、今でも探り探りでも、少しは分からして頂けれるそのことにお礼を申さして頂かなきゃなりませんが、さあお礼を申したからというて、ならおかげになるもんでもありません。だから、もう潰れたっちゃよか、というて「死ぬまいと思う心が疲れる」
 ここでカレンダーができておる中にありましょうが。あの御理解を頂いて助かった方があります。久富先生のご親戚で、元山下(ほうぶんさん?)の参謀をしておられました。栗谷という方。
 夫婦が胸の病気でたいへん難儀をしておられた時にですね、ここへお参り、椛目の時代にお参りをしておかげを受けた方なんです。その方がです、いわゆる、死ぬまいと思うから疲れるのだと。はあ、子供達がおる。さあどうしようかと夫婦の者が悩み、悲しんでおるところにね、おかげは受けられん。
 その御理解を頂かれて、そういう偉い( ? )さんですから、もういっぺんに分かられたんですね。はあ、ほんとに死ぬまい死ぬまい、死んじゃならんと思う心が疲れるのだ。よし、死んでもままよという心になろう。それからもうほんとにたいへんなおかげを受けられた方の話を私はしたんです。
 だからあなたもね、目が見えるように目が見えるようにという願いを捨てて、もうこの目が目くらになったってかまわんというね、気持ちを出しなさい。そしたらね、心が楽になります。
 こういう例えば様々な難儀な問題、様々ないわゆる神様のご都合で、クモのネバを張り巡らしておるように、神様は、たくさんな元があって目が見えないということなのですから、いうならばね、クモが中天ブラリにピシャッとこう止まっておるってことありません。よく側に寄ってみると、クモのネバがこうあって、その中に止まっておるように、難儀というものやら、困ったというような、これは良いことでもそうですよ。
 素晴らしい幸せをしておられる方は、その幸せっていうのは、様々な、いわゆるこのクモの巣のような、幸せにならねば、ならしてもらえる根というか、難儀にならなければならない元というものがあって、そこに難儀なら難儀、ありがたいならありがたいということがあるんです。
 それから言うと、クモがちょうど中天ブラリンで止まっておるようだけれども、側に寄って見ると、クモの巣を張り巡らしたその中にクモが止まっておるようなものだと。ね。
 だから、とてもどうしたならば、どういう信心をさして頂いたらこの目が開くであろうかじゃなくて、もうそういう神様のご都合のことであるのだから、神様がもう目くらにしなさるなら、目くらになってもかまわんという、いわば姿勢をとらせて頂いたらね、心が楽になります。ね。
 もう自分の目は、これからだんだん視力はもう衰えて、もう見えなくなるばっかりだとまあ思われたのか、ほんにそうだと思われたのか。そういうめぐりの深い自分のことであるから、これ以上楽になろうなんということはもったいない、と思われたのかしらんが、涙を流して「はあ」とこう言うておられましたがね。
 私は次にね、けれども先生、そういう楽な気持ちにならせて頂いたら、死ぬまいと思う心が疲れるのですから、その「死んでもままよ」という心になられたらね、心が楽になります。その楽な心がね、おかげをキャッチしますと言ったら、もうそれこそね、顔色が変わるくらいに、喜びの涙だったと思います、次には。
 「はあそうでした。長年学院にも行き、たいへんな御理解も頂きましたけれどもです、こういう御教えを頂いたことは今日が初めて」というて感動されました。ね。だから、そのへんのところは何ともかんとも言えんとこですね。こういう難儀から助けたい、這い出したいというて言いよる間はおかげにならんわけ。
 これは自分が受けなければならないものならば、もう正面からです、それを修行と思うて受けるという気になることが大事だということが分かるですね。それから逃れようじゃいけん。そこに受けようというところに元気な心が生まれ、心のゆとりが生まれる。安心が生まれる。
 死ぬまいと思うとる間は、もがき苦しんだけれども、死ぬまいと思う心がこのように自分を疲れさしておるのだと分かった時にです、度胸ができた。それは、戦場で鍛えた度胸が、栗谷さんの場合はできられたわけなんです。それが日にならずして、自分も全快のおかげを頂いて、奥さんもおかげを頂かれた。現在は横浜ですかね、横浜の部隊長さんとしておかげを頂いておられます。ようにですね、おかげを受けられる。
 だから、おかげを受ける。これはもうほんとに、もう一時はね、突き放されたごたる感じがいたしますけれども、心の中にゆとりが生まれる、それがね私は願いだと。今年、今月の言っておる根賀以。賀びを以って根とするとかね、いわゆる「和賀心」和らぎ賀ぶ心なんだ。
 昨日、ある方がお参りをしてみえて、今度のこの大祭にお参りさして頂いてね、お供え物の多いたくさんのこと、見事であることにほんとに驚いてしまいました。というておられます。もうほんとに合楽の先生は、とにかくお供えのさせ上手。根がだいたいが商売人じゃけん、やっぱ(?)であるじゃろうというふうに、言われるくらいに、確かにお供えだけはたくさん集まりますよねここでは。
 けれどもね、これは守り守りの力です。それは守り、私に力があるという意味じゃないけれどもね。それこそ、十円のお賽銭をお供えなさるでも、百円のお初穂を奉られるでも、十円がた百円がたのおかげは、必ず渡さんならんという信念なんです。ね。
 お大師様の信心を修行して回られますね、今はあんな人はおられませんけれど、昔はそうでしたね。一銭のお賽銭を上げます。一すくいのお米をいわば報謝いたします。ね。すると、そのお坊さんがどう言われますか。「この功徳によって、あまねく至上に及ぼす」という言葉がありますよね。
 このたった一すくいの米ですけれども、あなたが今、ここに善根功徳して下さったこれはです、これはもう世界中の隅々まにでですね、この善根というものは響き渡るほどしにです、染み込んで行くほどしにあることを祈りますという意味なのです。
 皆さんが十円のお賽銭のお供えをなさってもです、一すくいのお米のお供えをなさってもです、それが、例えば信者がお供えのし損にどんなるようなことでは、神様にも相すまん、皆さんにも相すまんという信念がです、私は、ここではあのような、いわゆる人が初めて参った人がたまがるだろうと思われるほどしの、見事なお供えが集まってくるのはそういうことではなかろうかと私は思う。ね。
 お供えをすりゃするだけおかげを頂く。御用さしてもりゃぁさして頂くほどありがたい。いわゆる、先ほどのクモのネバのそれじゃないですけれども、それこそこの功徳をもってです、あまねく至上に及ぼす。もう世界中の人間氏子の上に、それを、幸せをするほどしの元がね、できるということなんです。
 そういう私は、働きがあっておること合楽ではを信じます。だから、私は、お供えばお供えしたばってん、お供えのし損になったということがない。そこで、なら私ども百円のお供えをさしてもらうよりも千円。千円のお供えをさしてもらうよりも、十万も百万もお供えができるほどしにおかげを頂くということがね、私は、おかげの受け物が大きゅうなっていきよるとだと私は思います。そうでしょうが皆さん。ね。
 ですから、おかげを受けなきゃなりません。それには、去年も百円なら今年も百円。これはひとつもおかげの受け物が大きゅうなっていきよるとは思われない。おかげを受けなきゃいけん。
 ここでおっしゃるように、九十二節でおっしゃっておられますようにですね、先生が朝が遅いと信者も朝が遅い。教師に力がなからなければ、やはりそれだけがたのおかげしかない。守り守りの力によっておかげが違うのぞとおっしゃっておられることはです、力のことでしょうが。おかげの、大きなおかげを頂きたいなら、大きなおかげの受け物を作らにゃいけんでしょうが。
 おかげが、受け物が大きければ絶対おかげも大きいと。ところが、大きいばっかりで、中じゃ味噌樽のごとしとるなら、神様がそれに酒を入れなさるはずもなからなければ、その中に奈良漬を漬けて下さるはずもない。大きいだけじゃいかん。それが磨き清められ、それこそありがたき、もったいなき、畏れ多きのありがたいがです、その樽の中に香っておるような受け物を作らして頂かなきゃならんところに、磨きもしなければならない、改まりもしなければならないということが皆さん分かりますね。どうぞ。